宗家種村匠刀監修
神傳不動流柔体術史論
重村正秀は、名和神社の宮司であった。伯耆の国(鳥取県)大山に住み、文武の達人として有名でした。
正秀は重村五郎兵衛正種から数えて12代目にあたります。正種の兄である重村掃部允五郎兵衛尉は、後の将軍・足利尊氏と戦ったことでも有名な人物です。彼は1338年に亡くなりました。
政秀は、神聖な秘伝の家宝である鞴韜彪底之巻(神秘豹変之巻)を授かった。
正秀は「武者修行」と称して、日本全国を旅しました。下野国の宇都宮(栃木県)に到着した正秀は、ある農家に一泊しました。そこで、その農家の18歳の息子と出会う機会がありました。その息子は善平といい、正秀は「善兵衛の目つきや態度」から、独特の気質や性格を感じました。正秀はこの少年に心を動かされ、武術を教えることにした。善平は非常に聡明で才があり、武術にも特別な思い入れがありました。
正秀は、皆伝者で愛弟子の善平とともに、再び武蔵修行の旅に出ました。辿り着いたのは、出羽国(富山県・山形県)の朝日岳鼠谷でした。そこで正秀は、小石を撃って鳥を倒す技を持つ「吉平」という少年を発見します。正秀は、この少年も弟子に加え、武術を教えたのです。
正秀は伯耆国に戻り、二人の少年に武術を教え、3年後、両名に極意(宗家伝)が授けられました。
その後、善平は宇都宮に住み、福井兵右衛門と名乗りました。彼は「神道無念流体術・剣術・槍術」を創始しました。
吉兵衛は「朝日奈五郎源吉平」と名乗ります。彼も「神傳不動流体術・棒術・剣術・槍術」を創始しました。
神傳不動流体術は、神傳不動流柔体術とも呼ばれています。この流派の課程は以下の通りです。構え方五法,初傳型27本(裏型54本),中傳型11本(左技11本),奥伝型9本(変化技36本),極意口伝数編。別伝には「初伝」13本,「中伝」15本,「奥伝」12本があります。
この流派の代系:
重村掃部兵衛正秀~朝日奈五郎源吉平~大利根左近康正~大利根源八康秀~大利根源五郎康平~
淡路入道近康~戸田左近之正近正~戸田真龍軒正光~高松壽嗣翊翁~初見良昭白龍~種村恒久源匠刀(種村派)
条件:玄武館会員のみ
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