高松壽嗣
師匠達の師匠
高松壽嗣の出生名は寿太郎、本名は壽嗣(ヒサツグ)で、後に壽嗣(トシツグ)と改名した。彼は一般的に「蒙古の虎」と知られ、翊翁、澄水、鬼角、松壽軒、画楽夛武人、湖山、香車等と名乗っていました。
1889年(明治22年)3月10日、高松義心(真言宗大阿闍梨、義心教會団長、マッチ工場経営者、政治家)の長男として兵庫県に生まれ、1972年(昭和47年)4月2日、85歳で橿原神宮前の自宅で逝去。法名は順正覚寿禅定門。
高松先生は、9歳で武術の道に入り、石谷松太郎隆景、戸田真龍軒正光、水田芳太郎忠房等に師事。髙松先生は,本體楊心髙木流柔術、九鬼神流棒術、天真兵法九鬼神伝武術、義鑑流骨法術、神伝不動流柔体術・打拳体術、神伝鞴韜流体術、玉虎流骨子術、虎倒流骨法術、戸隠流忍法等々の奥義を次期宗家として完全に継承した。
1910年(明治43年)の夏、21歳になった壽嗣は、神戸の摩耶山に入り、亀の滝といわれる滝で厳しい修行を続けました。彼は霊験あらたかな玉置老人から、様々な奥義とともに精神的な伝授を受けました。このことが彼の心と体を強くしたのです。
山を下りて間もなく、壽嗣は中国の清国の天津に移り、満州から北支まで歩いた時には、数々の生死をかけた真の戦いに遭遇しました。少林拳の達人である張子竜との戦いに勝利し,その後二人は真の友人となり、良好な関係を保ったのでした。壽嗣はまた、日本民国青年武徳会の会長を決めるための大会でも優勝し,大会終了後、壽嗣は会長として数千人の人々に柔術等の武道を教えたのでした。
1919年に帰国した壽嗣は、大和の山寺で密教の僧侶となった。密教と超能力により,人々を助け、彼は聖人として敬まわれた。また、壽嗣は祖母である「なを」の面倒を人の手を借りずに見ていた。その後、彼女が亡くなった後、彼女を丁重に弔ったという。
壽嗣は1921年以来、21代九鬼家当主九鬼隆治を尊敬し、強い友情を築いていた。これは、九鬼家と良好な関係を保って来た父義心と同様であった。壽嗣は、九鬼中臣の奥義を拝読し、書き写すことを許され、奥義の理解に努めたことで、出雲秘抄(鞴韜のもう一つの秘密の巻物)の研究に役立った。
1921年(大正10年)2月11日、子爵九鬼隆治は「皇道宣揚会」を設立し,1029年(昭和4年)10月には、高御位山の麓に道場を建設し,この道場を「九鬼尚武局」と称し、九鬼神法、九鬼神流棒術、九鬼神流柔術の指導と発展に努めた。高松壽嗣は特に、天津鞴韜槓技伝の棒術からの九鬼神流棒術や柔術、詘詳辣技辣技の打拳体術、本體髙木楊心流柔術やその他の流派を整理しました。壽嗣は大範士、法司として、九鬼神流の後継者の指導、育成に力を注ぎました。
1945年の空襲により、九鬼家の資料はほとんどが焼失してしまいました。そこで、高松壽嗣は、自分で書写していたものに説明を加えて奥義を書き直し、1949年4月3日に九鬼家に奉納しました。
1950年5月、高松壽嗣は奈良橿原に橿原尚武會を設立しました。戦後、高松は伝統的な武術の後継者育成に力を注いだ。その一方で、真心会結び集い会や出雲神法を中心とした天津鞴韜の講演会を頻繁に開催し、多くの武術家や宗教家を育てました。
高松寿嗣の高弟には、木村正治、秋元文雄、佐藤金兵衛、上野貴などがいました。
初見良昭は、上野貴の門弟でしたが、後に高松の門人となりました。
時系列:
1908年~ 戸田真龍軒より神伝不動流、虎倒流、戸隠流の免許皆伝を授かる。
1908年~ 戸田真龍軒死去
1910年~ 石谷松太郎死去
1914年~ 中国で日本武道組織「日本青年武徳会」が設立される
1919年~ 中国から帰国する
1919年~ 木村正治が高松の弟子となる
1919年~ 天台宗の僧侶となる
1920年~ 高松先生は九鬼家の巻物を写す
1938年~ 高松先生は木村正治に九鬼神流の棒術と柔術の免許皆伝を伝授した。
1945年~ 第二次世界大戦中、九鬼家の巻物は消失した
1949年~ 九鬼家へ新しい巻物等を奉納した
1952年~高松先生は佐藤金兵衛に髙木楊心流と九鬼神流の免許皆伝を伝授した。
1962年~ 秋元文雄死去
1963年~高松先生は佐藤金兵衛に義鑑流の免許皆伝を伝授した。
1972年~ 高松先生死去