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種村匠刀

玄武館世界忍法武芸連盟及び国際柔術連盟会長 館長

宗家種村匠刀は、1947年8月、埼玉県松伏町に種村恒久という名前で生まれました。 恒久は彼の本名ですが、後に彼は「剣法のエキスパート」としての意味を込めて「匠刀」と名乗りました。

Tanemura Soke Biken

父貞恒は、宇多天皇系や清和天皇系にルーツを持ち、佐々木家や武田家などの有名な大名家の血流関係にある十七代目でした。父貞恒は剣道、銃剣術、柔術、忍術等にも精通していました。非常に伝統的で厳格な父親であった貞恒は、幼い頃から息子(匠刀)に厳しく武術と種村家の歴史等を教えました。

幼少の種村は、八歳の頃から父や父の叔父である小野派一刀流七段の山崎覚之助に教えを受けた。ほぼ毎日、無手の技と剣術の練習をしていた。

訓練は常に真剣そのもので,屋外で行われ、生徒たちは天候に関係なく、裸足で稽古した。彼は始終父も門人の指導者より体当たりされたり、後頭部を強打されたりして,よく気絶させらした。彼が意識を失った時には、氷のように冷たい水を入れたバケツを使って蘇生させられたり,そのまま意識が戻ったら、すぐに稽古を続行され,特に厳しく指導された。

十五歳のから時、彼は有名な神道夢想流の齋藤誠四郎師から剣道を学び始めました。 彼の真の武道への探求が形になり、花を咲かせ始めたのは、これらの高校時代でした。なお,十三歳のとき、種村先生は幸運にも有名な浅山一伝流体術、髙木楊心流柔術、義鑑流骨法術、その他の古流武術道場に入門することができました。 彼の修行は非常に集中練磨していたため、二十歳で神傳不動流と九鬼神流の免許皆伝を許されました。

Takamatsu and Tanemura

宗家種村は、大学時代に佐藤金兵衛先生に出会いました。佐藤先生は多くの人に武術を教えていましたが、佐藤先生が高松先生と修行していたことを知っている人は(最初は種村先生も含めて)ほとんどいませんでした。種村先生が元の師匠との関係を解消して玄武館を立ち上げた後、佐藤先生と再会し,教えを請うことができたのはそれから十数年後のことでした。そして、1989(平成元)年の冬、佐藤金兵衛先生から髙木楊心流、卜伝流、義鑑流、九鬼神流等の免許皆傳宗家を継承しました。

厳しい稽古

宗家は、道場での稽古に加えて、自分の納得の行く術技を完成させるために、できる限りいついかなる場合でも稽古・修行に邁進していました。彼の武術の師匠たちは皆、非常に厳しく、型の中に隠された秘密を厳格に守っていました。それぞれの動きは数回しか示されませんでした。そして弟子達は、実際の状況でその技を使えるようにするための特別な体の動きを、経験から発見・修得することが求められました。

宗家種村は、これらの術技を真に身につけるために、一つ一つの術技を数千回も練習したという。そして、多くの口伝箇所を発見し、技を自然に身につけて行ったのです。彼は、森や田んぼや川原など、あらゆる場所を道場としました。木や石、動物などの自然物が身近にあり、全てを稽古の相手にしたのでした。

Tanemura Soke Ketsuin

木や石は、突きや蹴りの威力をつけるために使われ、手や足を鍛える役割を果たしました。拳から血が出て、足の指の感覚がんくなるまで、木を殴ったり蹴ったりしていました。しかし、高松先生は、効果的な防御力を身につけるためのもっと良い方法を教えてくれました。種村先生は、真の武術家は人目を分からない様に通り過ぎるものだと言われました。また、武道家の立ち姿や歩き方を見れば、その人の稽古の習慣(特徴)がわかる。戦いに於いては、自分の長所や短所を相手に知られない方が、生き残る可能性が高くなるのです。

晴れた夜には、槍や六尺棒の練習もした。コオロギやカマキリが鳴く田んぼで、月の中心を狙って命中率を高めたり、風に揺れる葉っぱを突き刺したりした。動物(たいていは犬)の場合は、攻撃させるのは簡単だ。噛み付こうと飛びかかってきたら、太刀捌き(自然な体の動き、この場合は回避)を繰り返して、相手が諦めるまで続けるのです。

 

教養と初期の経歴

宗家種村は法政大学で法律を専攻し、卒業しました。しかし、弁護士ではなく、忍法や柔術の知識を生かして、人を守り、助ける仕事がしたいと考えていました。18歳の時,宗家がこれからの人生を決めようとしていたとき、彼は大変な事故に遭いました。小さな車が救急車に追突され、種村先生の顔には大きなガラスの破片が突き刺さり,強打されたため、親元には「死亡した」と誤報されてしまった。種村先生は、病院で、自分の短い人生がもうすぐ終わってしまうことを考え、天の助けを求め、いくつかの自分勝手な点を変えることを約束し(反省し)、残りの人生を人を守り、己を守ること法を教えることに捧げる事にしたのです。

Shoto Tanemura (Police time)

宗家は22歳に時に警視庁警察官を拝命しました。パトカー勤務や防犯警察,機動隊等、道場で学んだことを活かし、試すことのできる仕事でした。幾度となくその腕を試されましたが、一度も失敗することはありませんた。種村先生の才能を見抜いた上司は、特別な忍法武芸クラブで警察官に忍法と武術を教えることを許可しました。その後、彼は警察学校の教官となりました。

Tanemura Sensei - Ninja with Senban

武道家の使命

約15年間の勤務の後、彼は心の中で、日本だけでなく全世界に真の武術を普及・保存する必要性を感じていました。その使命を果たすために、警部補で警視庁を辞めたのです。警察を辞めてすぐに、玄武館忍法武芸道場を設立し、連盟を組織しました。

1984年(昭和59年)11月28日、宗家種村匠刀は、松伏道場でわずかな門人達からスタートしました。現在では、黒帯の指導者たちが24カ国以上で何千人もの熱心な会員達に忍法武芸を教えているほか、宗家自らが世界各地を廻り,彼の伝統的武道を紹介し,普及活動に励んでいます。

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